岡部金治郎

岡部金治郎は、東北帝大を卒業後そのまま東北帝大に奉職し、同年講師、1925年助教授となる。アメリカのアルバート・ハル (Albert Hull) により低周波用増幅管として発表されていた単陽極マグネトロンを用いて学生と実験をしているときに印加磁界Hと陽極電流Iとの関係が理論値からずれていることに気づき、何らかの発振現象が起きていることを発見した。

1927年(昭和2年) に円筒状陽極を軸方向に2分割しその間に振動回路を形成したものが効率良くマイクロ波(当時は波長3cm、周波数10GHz、振動モードとしてはA型振動とB型振動)を安定して発振できることを見出し、多分割陽極マグネトロン(Multi-Split-Anode Magnetoron)の開発の端緒となった

長い名前の賞

アルフレッド・ノーベル記念経済学スウェーデン国立銀行賞

非常に長い名前の賞だ。

経済学における最も権威ある賞の一つである。

アルフレッド・ノーベル記念経済学スウェーデン国立銀行賞はアルフレッド・ノーベル自身が設置、遺贈したものではないので、正式なノーベル賞とは言えないとされ、ノーベル賞のホームページでもそのように強調されている[1]。そのため、賞金はスウェーデン国立銀行から拠出されている。しかし、選考や授賞式などの諸行事は他の部門のノーベル賞と合同で実施されている。

受賞は1969年より開始された。なお他の部門と同じく、1回に受賞可能な人数は3人が上限であり、また共同受賞の場合は同じ受賞理由が適用される。選考は化学賞及び物理学賞と同じくスウェーデン王立科学アカデミーが行っている。

札幌雪まつりの始まり

1950年に札幌観光協会と札幌市の主催によって開催されたのが始まりである。企画には後援者の一員に名を連ねた北海タイムスが深く関与していた。これ以前に札幌には冬の祭がいくつかあったが、第二次世界大戦中に途絶えていた。

雪像を作る祭のアイデアは、小樽市北手宮尋常小学校(現・小樽市立北手宮小学校)が1935年2月にはじめた雪まつりからとられた。

最初のさっぽろ雪まつりでは、市民の雪捨て場となっていた大通公園の7丁目に、札幌市内の中学校2校・高等学校3校の生徒が美術科教諭の指導の下に計6基の雪像を制作した。他に日本国有鉄道(国鉄)札幌鉄道管理局が雪まつりに合わせて、札幌駅前に雪像を作った。

キーピング

花王は、1964年に液体洗濯糊花王スターチを発売している。この製品は澱粉糊に代わって初めて合成糊が使われたものである。

1966年7月にはキーピングと改名して再発売している。これは同業他社であるライオン油脂が同年1966年6月に液体洗濯糊ライオンハイスターチを発売しており、類似称号対策や対抗上のためと思われ、柔軟剤・漂白剤とともに改名が行われた。 花王ブリーチ→花王ハイター 花王ソフター→ハミング 花王スターチ→キーピング

柔軟剤と漂白剤については、初期は旧製品の名前も小さく書かれていたが、キーピングについては、旧名称であった花王スターチの名前が併記されなかったのが特徴的である。

なおライオンとの洗濯糊の競争は最終的には花王に軍配が上がり、現在ライオンからは一般用の洗濯糊は発売されていない様だ。

いつからか

エスカレーターを歩いて昇る人のために片側をあける、というのが普通になってしまった。

だが、元々エスカレーターは歩くものではなかったはずだった。

大阪では、左側に立つのが普通らしい。

ところでエスカレーターの外観だが、機構の露出部分の多さから建物のインテリアに大きな影響を与えるので、意匠に工夫を凝らしたものが多い。

エスカレーターでは事故も昔から多いので、色々気を付けたいところではある。

浅間丸

浅間丸(淺間丸、あさままる)は日本の日本郵船が所有していた貨客船。その豪華さから「太平洋の女王」と呼ばれることもあった。

1929年11月に日本郵船によって就航した後、横浜-ホノルル-サンフランシスコ航路に就航し太平洋横断の速度記録を作った。その後は、1932年に開催されたロサンゼルスオリンピックに出場する西竹一男爵をアメリカに運んだほか、西の親友であるハリウッドスターのダグラス・フェアバンクスとメアリー・ピックフォード夫妻が来日の際に乗船。また、ヘレン・ケラーが来日の際にも乗船するなど華々しい経歴を送った。

その後1937年9月に、イギリスの植民地の香港沖で、台風の中でイタリアの客船である「コンテ・ヴェルデ」号と接触後座礁するというアクシデントに見舞われた。救助作業は日本サルヴェージが請け無事救助に成功(この顛末については内藤初穂著「太平洋の女王 浅間丸」に詳述されている)し、翌年の9月15日には定期航路に復帰した。なお「コンテ・ヴェルデ」号とは、第二次世界大戦中にコンビを組んで長距離航海をすることになる。

知らなかったその後

新日の初代タイガーが去った後、二代目タイガーを出そうとしたらしい。全日ではなく、新日でだ。

しかも、白羽の矢が立ったのは何と山崎一夫。

大学で一年間、器械体操を学ばせてからデビューさせる予定だったらしい。

何と言うプランだ。

新日で二代目タイガーが実現していたら、山崎のその後もだいぶ変わっただろう。

古い試合

昔の新日本プロレスの大会から。

1982年9月2日 茨城・笠間市民体育館 観衆2100人
①1/15 ○B・キャット(10分41秒 体固め)●山崎

ブラックキャットと山崎一夫が一試合目に組まれている、等興味深い。

②1/20 △藤原(時間切れ引き分け)△荒川
③1/20 木戸,●平田(11分31秒 体固め)○力抜山,曹相鉄
④1/30 ●保永(7分37秒 吊り天井固め)○ビジャノⅢ
⑤1/30 寺西,●剛(10分48秒 エビ固め)○P・ロバーツ,C・アダムス
⑥1/30 ●谷津(8分47秒 片エビ固め)○S・スローター

谷津はこの頃、結構外人選手の負け役をやっている。
⑦1/30 ○坂口(7分23秒 逆エビ固め)●E・レスリー
⑧1/45 ○タイガーマスク,木村健(9分22秒 体固め)B・タイガー,●L・マリスカル
⑨3/60 ○A猪木,H・ホーガン,藤波(2-1)●R木村,M・スーパースター,A浜口
①▲猪木(9分58秒 両者リングアウト)▲木村
②○藤波(4分18秒 逆さ押さえ込み)●浜口

破綻の原因

安宅産業が破綻した、一番の原因はなんだったのか。

安宅社内では「相談役社賓」の肩書きを有していた、創業者安宅弥吉の長男・安宅英一元会長が、「安宅ファミリー」の勢力をバックに人事権を掌握し、事実上最高権力者として君臨していた。安宅家から奨学金を受けていた者、コネクションがあって入社した者、何らかの理由で引き立てられた者などから「ファミリー」は形成され、社員の言動をチェックしては英一に報告するなど、スパイのような存在であった。「ファミリー」の頂点とも言える人物が前出の柴田芳雄専務で、管理財務本部と人事総務本部の本部長を兼任して社内の実権を一手に集め、「天皇」の異名を奉られていた。

この「ファミリー」という隠然たる勢力をバックに、英一は自身にさしたるビジョンがあったわけでもないのに、人事権を振りかざし、社内を萎縮させた。かつて英一の支持の下、戦後の安宅発展に尽力した猪崎久太郎社長は、極秘裏に住友商事との合併交渉を行ったため会長に祭り上げられ、後任の越田左多男社長も、人事権への介入を止めるよう英一に直言したため更迭された。

安宅一族は公私混同も激しく、のちに「安宅コレクション」として大阪市立東洋陶磁美術館に、所蔵展示されている中国・朝鮮(高麗)陶磁器の膨大なコレクションは、英一が安宅産業で美術品部を作って購入したものである。また、英一の息子・昭弥(専務)も子会社の「安宅興産」を通し、40数台にも上るクラシックカーを購入していった。

昭和の安定期

高度経済成長により日本は、世界有数の人口密度に由来する過剰人口問題を解決して、国民の生活は有史以来初めてといえる豊かさになった。

2度のオイルショック後の急激なインフレーション(狂乱物価)と不況は短期間で終わり、素材産業など一部の重厚長大産業は没落したが、省エネルギー化を推進して、ハイテク産業・サービス業が成長して、安定成長へと順調に移行することができた。欧米諸国がスタグフレーションに苦しむなか、自動車や電化製品の生産を激増させ、集中豪雨的な海外輸出の拡大によって貿易黒字は増大の一途をたどった。

ついには日本の経済は昭和50年代の1980年(昭和55年)には、戦後わずか30数年にしてGNPレベルではアメリカ合衆国の経済に次ぐ規模を持うようになり、国民の生活レベルは一億総中流と呼ばれた。